和田アキ子の生い立ちが壮絶!悲惨な子供時代と喧嘩番長伝説!

和田アキ子さんといえば、主に歌手として活躍する大御所芸能人です。

紅白歌合戦の常連でもあり、知らない人はいないのではないでしょうか。

そんな和田アキ子さんですが、生い立ちは壮絶だったといいます。

どのような子供時代を過ごしてきたのか詳しく調べてみました。

また、和田アキ子さんは歯に衣着せぬ発言をする事でも有名ですが、過去には「喧嘩番長」と呼ばれるほどのエピソードがあるようです。

合わせてご紹介してきます。

和田アキ子の生い立ちが壮絶!悲惨な子供時代?

和田アキ子さんの生い立ちを語る上で欠かせないのが、父親の存在だそうです。

どのような父親だったのでしょうか。

ここでは、和田アキ子さんの壮絶な生い立ちと父親との関係を見ていく事にしましょう。

和田アキ子の生い立ちが壮絶!悲惨な子供時代?

和田アキ子さんは、

大阪市立真田山小学校

私立城星学園中学校

私立城星学園高校と進学をしていますが、高校一年生の時に父親が勝手に退学届を提出し、退学となってしまったそうです。

その在学期間はわずか3日間との事。

勝手に退学届とは、衝撃的ですよね。

小学校6年生の時は既に165cmという長身で、その身長を理由にいじめられる事もあったのだとか。

和田アキ子さんの生い立ちには、その他にも衝撃的なエピソードがありました。

和田アキ子さんの父親は料亭を経営する傍ら、自宅の大阪市で柔道の道場「金海道場」を開いていたそうで、和田アキ子さんは6歳の頃から柔道を叩き込まれたといいます。

父親は礼儀作法やしつけに大変厳しく、

「女は飯と掃除だけはできなあかん」

と言われ、100畳を超える道場を毎日掃除をする事を強いられていたそうです。

和田アキ子さんは弟が3人いるとの事ですが、兄弟の中で一番厳しく育てられたそう。

3人の弟に暴力を振るう事はなかったのですが、和田アキ子さんには手を上げることがあり、ベルトのバックルで殴られた事もあったといいます。

ある時そのバックルの留め具が、なんと下唇を貫通してしまったのだとか。

想像しただけでも痛いですよね。

今でもその傷が残っているほどの大怪我で、血だらけになって、貫通したまま泣きながら病院へ行った事が忘れられないといいます。

今の時代なら通報をされるのではないでしょうか。

当時は男尊女卑がまだ色濃く世の中にあった時代で、父親の前では全ての事が男性優先。

正座・敬語を使わなければいけないなど、普段の生活も厳しいものでした。

そんな父親の事を、和田アキ子さんは嫌いで嫌いでしょうがなくて、何度も家出を繰り返し、挙句の果てには

「お父さん、私は本当にお父さんの子供ですか?」

と聞いた事さえあったそうです。

本当に壮絶な生い立ちですよね。

和田アキ子のプロフィール!

和田アキ子さんは大阪府大阪市天王寺区舟橋町出身。

済州島出身者の父親と、朝鮮半島出身者の母親を持つ在日韓国人2世で、

出生名は「金福子」

帰化前の通名は「金海福子」

現在の本名は「飯塚現子」(旧姓:和田)

というそうです。

父親は先程も触れましたが柔道場を開いており、母親は鶴橋・国際市場で乾物屋を営んでいたのだそうです。

実は、和田アキ子さんの父親には本妻がおり、更に2人目の妻もいて、母親は3番目の妻なのだとか!

今の時代では考えられないですよね。

和田アキ子さんの叔父さんの名前は、和田忠浩さん。

父親の弟にあたります。

実は、忠浩さんは、アッコさんの戸籍上の「父」に当たるのだとか。

何故かというと、和田アキ子さんが芸能界にデビューする時に、在日韓国人だとわかる名前だと良くないと思った父親が、帰化をして「和田」姓だった叔父の養子にしたためなのだそうです。

その辺りは娘の事を考えてくれる父親だったのですね。

和田アキ子さんは、1976年に、当時マネージャーを務めていた小林甫さんと結婚をしました。

しかしながら、結婚を機に小林甫さんが他のタレントの担当に変わった事で、生活にすれ違いが生じ、わずか9ヶ月で離婚してしまいました。

その後、1981年に当時カメラマンをしていた飯塚浩司さんと再婚をしています。

きっかけとなったのが、和田アキ子さんが出演していたフジテレビのドラマ『ひまわり戦争』。

この作品で飯塚浩司さんはカメラを担当していたのです。

しかし、再婚した直後に、和田アキ子さんの身体に癌がみつかりました。

子宮癌です。

和田アキ子さんは子宮を全摘出手術をしたため、子供が出来ない身体となってしまい、飯塚浩司さんの事を考えて離婚を求めたといいます。

それに対して飯塚浩司さんは、

「子供が欲しくて結婚したのではない」

と優しい言葉で返してくれたのだとか。

素晴らしい夫婦愛ですよね。

和田アキ子さんもこの言葉に救われた事と思います。

本当に波乱万丈な人生ですよね。

和田アキ子の喧嘩番長伝説!

バラエティ番組等では和田アキ子さんの男勝りな言動が度々見られ、笑いへと繋がっていますが、実際も「喧嘩番長」だったそうなのです。

どんなエピソードがあるのか気になりますよね。

また、壮絶な幼少期を過ごしてきた和田アキ子さんですが、デビューしてからも壮絶な日々が待っていたそうなんです。

合わせて調べてみましたのでご覧ください。

和田アキ子の喧嘩番長伝説!

厳しかった父親に反発した和田アキ子さん。

中学1年生の頃には家を飛び出し、大阪・ミナミの繁華街や友人の家を泊まり歩くようになったのだそうです。

この頃には本格的に非行に走り、気にくわない相手がいると自分から因縁をつけ、手当たり次第喧嘩に明け暮れていたといいます。

そのような事を繰り返して大阪の繁華街では「喧嘩番長」として名を馳せていたのだとか。

子分を従えて歩き、大人に交じって飲酒・喫煙を繰り返していた和田アキ子さんは「ミナミのアコ」と呼ばれ、周囲から恐れられていました。

また、中学生にして麻雀にものめり込み、1日に200本ものタバコを吸っていたのだそうです。

さらに2018年9月17日放送の『しゃべくり007』(日本テレビ系)では、道頓堀に人を投げていた事もあるのだと暴露しています。

和田アキ子の人生は歌手デビュー後も壮絶!?

壮絶な生い立ちがありましたが、そんな幼少期を生き抜いてきた和田アキ子さんが歌手デビューしたのは1968年の18歳の時でした。

和田アキ子さんは小学5年生の頃に洋楽に憧れ、15歳の頃からジャズ喫茶やゴーゴークラブで歌い始めました。

持ち前の長身から発せられる迫力ある歌声が評判を呼び、ホリプロの社長・堀威夫さん直々にスカウトされたのが、デビューのきっかけでした。

デビュー曲は『星空の孤独』

2枚目のシングル『どしゃぶりの雨の中』が大ヒットし、テレビ出演するようになりました。

しかしながら、ここでも待ち受けていたのが先輩歌手からのいじめでした。

黒い衣装が多かった和田アキ子さんに対して

「黒イヤだわ。(衣装)替えて」

と言い衣装を替えさせたり、

当時は楽屋が大部屋で、部屋が一緒になった先輩から

「男がいるから着替えられない」

と悪口を言われたりしたのだといいます。

何とも幼稚ないじめですよね。

また、当時履いていた白いバスケットシューズに黒いマジックで

「男の子は出ていけ」

と書かれたこともあったのだとか。

いじめた女性歌手は3人ほどいたようですが、今は芸能界に残っていないのだといいます。

和田アキ子さん曰く、

「私(が)嫌いになる人は、みんな消えていく」

のだそうです。

そんな壮絶ないじめを克服出来たのは、いしだあゆみさんや中尾エミさんの存在が大きかったのだとか。

「あゆみちゃんとか、中尾ミエちゃんとかが、『相手しなくていいのよ、バカなんだから』って、言ってくれて」

と二人が助けてくれた事を今でも感謝しているとの事です。

見方となってくれる人が身近にいてくれて、本当によかったですよね。

和田アキ子の生い立ちと子供時代:まとめ

和田アキ子さんの生い立ちは、父親の暴力により本当に壮絶なものでした。

それだけでなく、歌手デビューしてからの先輩からのいじめも酷いものでした。

今の男勝りな物言いは、それらを乗り越えてきた強さの表れかも知れないですね。

また、度重なる父親からの暴力から逃れるために、家出を試みたり非行に走ってしまう事もありました。

過去には周囲から「喧嘩番長」と呼ばれるほど喧嘩に明け暮れていた和田アキ子さん。

そんな辛い日々に打ち勝って、今では大御所として歌番組やバラエティ番組で大活躍されています。

これからも視聴者に元気を与えていってほしいと思います。

参考サイト

Wikipedia

デイリー

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